今回は続「語源」の勉強です。今日の言葉は「分別」です。ごみの分別(ぶんべつ)ではありません。いい分別(ふんべつ)のある大人が・・・等の「分別(ふんべつ)」です。出典は玄侑宗久さん著の「さすらいの仏教語」です。

「思慮分別」とか「分別盛り」とか言う様に、我々は分別を持つ事を褒め勧めていますが、本来の分別は、「どうしても凡夫がしてしまう間違った判断の事」だそうです。反対語である「無分別」の智慧こそ、悟りの智慧なのだそうです。以下、玄侑宗久さんの文章をそのまま忠実に記します。

≪要するに仏道修行者は、いっぱしの分別を身につける為に修行するのではなく、逆に分別を捨てるためにこそ修行するのだ。子供から大人になるに従って分別を身につけていくことは確かだが、それを仏教は、ロクなもんじゃないと考えているということである。思えば我々は、大人になるにつれて「どっちが得か」「どっちが綺麗か」あるいは「どっちが正しいか」なんてことばかり身につけていく≫

反対語の「無分別」こそが「悟りの智慧」であり「求めるもの」である事も驚きですし、現在我々の使い方がいかに語源、本来の意味からかけ離れてしまっているかも驚愕ものですね!!

同時に「子供のすごさ、すばらしさ」と「大人の苦しさ、悲しさ」を感じざるを得ません。そして「人の生き様のあり方」、「自分の生き様」を振り返り、子供や自分にどう向き合うか、考えさせられてしまいます。 そしてまた「仏教の深淵さ」を感じざるを得ませんね!!

さて皆様はどう思われましたか?